2009年12月17日

防除事業への批判

現状の松くい虫防除事業には、一定の批判がある。
まず、クロマツ、アカマツは、いずれも広葉樹の高木の生育が困難な厳しい環境条件下で局所的に安定した群落を維持することを除くと、広域で安定した森林を作らない。むしろ、植物遷移の上では、裸地に定着する先駆者樹木であり、林内が暗く富栄養になると次世代への更新ができない。そのため、松林を維持するには常に林床を貧栄養かつ明るい条件に維持する必要がある。かつて、松林の落葉落枝は広く燃料として利用され、そのために人里周辺では松林が維持されてきた。現在それが行われなくなったため、松林の減少するのは当然であり、マツ材線虫病は単にそれを加速したにすぎないという考えがある。

この考えに立てば、必要のなくなった松林では松くい虫防除は必ずしも行う必要がなく、むしろ殺虫剤の広域散布による弊害を考慮すべきである。用いられている殺虫剤は選択的にマツノマダラカミキリを殺すものではなく、森林の生物群集を構成する昆虫など地上生の節足動物を非選択的に殺すものであるために、森林の生態系を乱し多様性を損なう。農薬の人体への健康被害の研究と比べても、地域生態系への影響評価の研究はまだ十分とは言えず、この観点からの防除対策の評価が必要である。また、枯死した松を切り倒す作業による周囲の攪乱によって、自然植生の回復が遅れたり、被害が広がったと思われる例もある。

二十面相
日本一の息子
猫の足
白い秋桜
隼の生活
美月はおギャル
美姫のハムちゃん
姫林檎
楓がビックリ
歩く男
農薬の空中散布に批判があるのは当然だが、それを理由に、あるいは別の理由で松くい虫防除や時にはマツ林そのものを不要とする意見が出されることもある。
すでに林野庁は方針を転換し、防除対象を特に守るべき林分(高度公益機能森林及び被害拡大防止森林)に限定している。現在防除対象となっているのは、理由があって守るべきと判断された林分である。従って農薬の無差別散布との批判は当たらない。

2009年12月01日

タヌキは金の精霊であり

タヌキは金の精霊であり、金は本来的に再生を意味する鉱物である。したがって、再生の精霊であることをも意味しているが、ネコと同様、死のシンボルとしての側面も持っていた。金が再生のシンボルとされるのは、不純物を排出していく過程で、金の輝きは一度死に(輝度が一時的に低下する)、次の瞬間、眩いばかりに輝きを再生すという現象があるからである。この金の死をもたらすため、金工師らは、炉に本種の死体を釣り下げたと伝えられている。しかし、この伝承は金工師に限ったもので、ネコと同じく、狸の場合も精霊的要素はほとんど伝承されなかった。タヌキの化けるという能力はキツネほどではないとされているが、これは化ける狸の多くが、古猫と同じく付喪神(つくもがみ)であるためである。ただ、一説には「狐の七化け狸の八化け」といって化ける能力はキツネよりも一枚上手とされることもある。実際伝承の中でキツネは人間の女性に化けることがほとんどだが、タヌキは人間のほかにも物や建物、妖怪、他の動物等に化けることが多い。また、キツネと勝負して勝ったタヌキの話もあり、佐渡島の団三郎狸などは自身の領地にキツネを寄せ付けなかったともされている。また、犬が天敵であり人は騙せても犬は騙せないという。
悠の初恋
悠翔の結婚準備
遊園地
遥の蛇の道は蛇だ
陽斗の八方美人
嵐の中で
陸斗のおいしいご飯
琉斗の不眠不休
涼介の活動報告
涙サプライズ!

群馬県館林市茂林寺の伝説として語り継がれている昔話のひとつ。タヌキが守鶴という僧に化けて七代寺を守り、汲んでも尽きない茶を沸かしたとされている。普通、物怪(もののけ)は鉄を嫌うが、このタヌキはその鉄の茶釜に化けており、金の精霊たる所以を表している。また、金工には火が重要なエレメントとなるが、鳥山石燕は『画図百鬼夜行』において、文福というネーミングは、「文武火」のことであり、文火は緩火、武火は強火を意味するとしている。火の様子が茶釜の名前になったのも、タヌキが金工のエレメントであることを示すが故である。汲めども尽きぬとは、富、すなわち金を表す言葉である。

茨城の炭焼き小屋に毎晩女が現れ、いたずらがひどいので殺すとムジナ(貉)であったというが、ムジナは2尾いっしょにならないと女に化けられないと伝えられる。

2009年11月27日

ドイツ海軍は再建途中であった

第二次世界大戦開始時、ドイツ海軍は再建途中であった。そのため、完成に時間が掛かる水上戦闘艦艇の建造を後回しにして中型潜水艦量産に注力し、前大戦同様に対英通商破壊を開始した。

一方イギリスは後に各種新型対潜兵器の投入などで対抗したものの、開戦当初から独潜水艦の攻撃で多数の船舶を喪失した。ドイツの暗号機エニグマの生成する暗号が短時間で解読されるようになってからは、それまで秘匿性の高かった潜水艦の所在が明らかとなり、併せてアメリカ参戦による多数の護衛艦や航空機投入で多くを沈めるに至った。これに対し、ドイツ海軍は潜水艦の性能向上を図り、シュノーケルやヴァルター機関などの新技術を導入した新型潜水艦を開発し、大戦末期に投入したが、戦況挽回には至らなかった。
楓がビックリ
歩く男
宝踏み
暴れん坊ママ
魔法屋敷
未羽ちゃん目には目を
夢の果てに
明日のライフレシピ情報
夜をブッ飛ばせ!
優 の結婚戦争

大日本帝国海軍の潜水艦は、航行せず静粛性を保ったまま水平姿勢を維持出来る装置や、航跡が見えにくい酸素魚雷の搭載、長大な航続距離と潜水空母の機能を併せ持つ伊四〇〇型潜水艦などが良く知られる。真珠湾攻撃前の偵察活動や、遣独潜水艦作戦、南方の物資の輸送などで活躍した。前線の意見から不合理な指令系統の見直し、効果的な潜水艦運用の為に潜水艦の地位改善を進め、後期には潜水艦へのレーダー搭載も進められた。これに対し、アメリカは先じて指揮系統の整備・レーダー搭載を進め、軍艦・貨客船への攻撃により日本艦艇へ打撃を与え、海上交通路の寸断、日本の資源海上輸送阻止を行った。

1955年に完成した米海軍のノーチラス号(水上排水量3180t)は、原子炉と蒸気タービンを採用した、史上初の原子力潜水艦であった。本艦は水中速力20ノット、潜航可能時間は3ヶ月間前後であった。原子力主機登場により、潜水艦の水中速力と水中航続力は大きく増大した。それにより、潜水艦の戦闘能力は飛躍的な向上を遂げた。

2009年11月13日

明智光秀は越前国より坂本城に帰城し

明智光秀は越前国より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月初旬に出陣したと思われている。この時赤井直正は竹田城にいたが、明智光秀の動きを察知し黒井城に帰城、戦闘態勢を整えた。

織田信長は、同年10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいた。

明智光秀は黒井城の周囲に2、3箇所の砦を築き、圧倒的兵力で黒井城を包囲した。この時の状況を『八木豊信書状』によると「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と観測を述べ、スムーズに戦がすすんでいた。戦況は明智光秀に有利であり、攻城戦は2ヵ月以上となった翌天正4年(1576年)1月15日、波多野秀治軍が3方向から攻め立て明智光秀軍は総退却となった。『ひょうごの城紀行』によると「赤井の呼び込み軍法」と言われている。
委員長の田村君
王様のブランチ
河童のPCタワー
海翔が原宿に参上
輝乃実のブログ
筋肉学園!
健太郎の弱肉強食
今日のスコアー
仕事の鬼
就職・応援団

この戦いは、波多野秀治軍の裏切りにより勝敗がついたが、呼び込みという言い方は適切ではない。なぜこのような言い方が伝わったか『郷土の城ものがたり』では、織田信長の朱印状の返事をどのようするか、丹波国の国人衆が集まり協議を行い「赤井直正のみが織田信長の意向に従わない、他の国人衆は織田信長に従うので赤井直正を討ち滅ぼしてほしい」という偽りの返事をしたのではないかと解説している。『籾井家日記』によると、「赤井直正と波多野秀治の間には密約があり予定の行動であった」という記載があるが、『戦国合戦大辞典』によると「その記述は信用できるものではない」としている。『兵庫県の不思議事典』によると「赤井、波多野両家は姻戚関係にあり、事前に密約があった可能性がささやかれてはいるものの、はっきりした記録はない」と記載している。

2009年11月02日

電波障害の分類

電波障害はいくつかの種類に分類できる。それぞれ基本的な対策方法が異なるため、 電波障害の防止に当たっては、現象がどの分類に当てはまるかを注意深く見極める 必要がある。
ノーマル・モード - 電波障害を及ぼす高周波電流が、
電源線を電源電流と同様の経路(行きと帰りの2本の線が接続された場合に電流が流れる) で流れる場合をノーマル・モードと呼ぶ。高周波電流は2本の電源線を逆位相で流れる。

コモン・モード - 電波障害を及ぼす高周波電流が、
電源線と大地で形成される経路で流れる場合をコモン・モードと呼ぶ。 高周波電流は2本の電源線を同位相で流れる。
サンキュー
ズッコケ男道
タルトちゃん
とんがり帽子
ハチミツマーヤ
ピッチの表現の自由
ブレンドコーヒー
マイクマン
ももたろう
レタスの雑記帳

電波障害が生じた場合に重要なことは、その発生源を特定することである。発生源と疑われる機器の電源を切ることにより、電波障害が消滅することを確認する。次に、原因となる高周波電流の発生原因と伝達経路を調べ、必要な対策を講じる。対策における基本的な知識を次に述べる。
ノーマル・モードでは原因となる高周波電流は電源回路を通して伝達するため、発生源の機器と障害を受ける機器のどちらか、あるいは両方の電源回路に、ライン・フィルターと呼ばれる高周波電流を阻止する回路を挿入する。ライン・フィルターにはノーマル・モード用、コモン・モード用、ノーマル・コモン両用の3種類があるので、使用時には確認が必要である。

2009年10月23日

江戸幕府は当初は様々な養子規制を設けたものの

江戸幕府は当初は様々な養子規制を設けたものの、慶安事件をきっかけに末期養子を解禁し、享保18年(1738年)には当主か妻の縁戚であれば浪人・陪臣でも養子が可能とされた。このため、養子の規制が次第に緩くなり、江戸時代後期には商人などの資産家の次男以下が持参金を持って武家に養子に行って武士身分を得るという持参金養子が盛んになり、士農工商の建前を崩壊に導いていった。一方、商人・農民などの庶民間における養子縁組は、証文のやり取りだけで縁組も離縁も比較的簡単に可能であり、「家名の存続」よりも「家業の経営」を重視した養子縁組が行われるケースが多かった。
心が自由奔放
あたらしいおうち
アンパンマン号
エジソンの母
おでんに日本酒
ガール!
キララ光次郎
ゴッドファーザーの息子
ジェットコースター
スポーツライターを追跡
ちびまる子ちゃん
ナデシコの情報処理
はなさかじいさん
ひまな午後
ベニハヤトの雑記帳
まりりんの春休み
やまのいもの雑記帳
ロングスカート
一花の自然観察
黄泉の国

明治以後になると「家」を社会秩序の中心に置く家制度が全ての階層に広げられた結果、養子縁組も家制度の維持という観点で行われることが多くなった。それが大きく変わるのは戦後の日本国憲法制定に伴う民法改正以後のことである。

旧民法では、養子縁組は、養親の家にはいり、養親の嫡出子たる身分を取得することであるといえる。 養子は法定血族の一種である。 養子となる者は、養親たるべき者の尊属または年長者でないこと、法定推定家督相続人たる身分でないことが必要である。 配偶者のある者は配偶者と共同してのみ養子縁組をなすことができる。 養子は養子縁組の日から養親の嫡出子たる身分を取得するから養親に養子縁組前に生まれた子女がある場合は養子は年長者であっても法律上これらの子女より年少者として取り扱われる。

2009年06月22日

予言の的中を示すには、合理的には

予言の的中を示すには、合理的には予測されない事象について、何が起こるかという事象の内容を事前に明確に記録していることが、十分条件となる。前記の十分条件を満たしていると広く認められている資料は、2007年までには確認されていない。

予言と称されるものでしばしば見られる事例として、

事前に残された抽象的な言葉(予言)を、事後に事実に合わせて解釈をすること
多く語った中で数例的中したといった偶発的な的中
を予言の的中あるいは成就とするものがある。認知心理学などではこれらは予言の的中とはみなされない[3]。 また、予言の的中をもって予言者の特異な能力の発露、あるいは超常的な情報伝達が行われた証拠とされることもあるが、的中したという事象からそれが偶然によるものか事前に予見されたものかを判別する方法は存在しない。[4]。
日本映画
バレエ
結晶学
ビリヤード
栄養ドリンク
キンボール
少子化
動物園
アレルギー
関東
為替レート
おつまみ
歌舞伎
運送
自動車工学
鳥インフルエンザ
サーフィン
薬膳
カバディ
高齢出産

古典力学の世界観の元では、この世のあらゆる物体の位置とその運動を把握できれば、未来永劫にわたる事象の予測が可能である。これによって未来を見渡せる存在をラプラスの悪魔という。しかし不確定性原理のもとでは、これは不可能であると見なされるようになった。バタフライ効果が知られてからは、非線形力学系では系の従う方程式と初期値を定めることが可能であったとしても、微小な初期値の差異が拡大再生成されて、系の確定的な未来の状態を精度よく予測することは困難であるとされている。 不可知論では、予言という概念を認めていない。

これらの点をまとめると

予言とされる供述内容が、未来の事象を明確に特定するには不十分である。
予言による未来の事象を推論する方法に合理的説明がない。
さらに一般に予言で扱われるような人間が関わる事件を合理的に説明する方法は、相当に困難(事実上不可能)と思われること。
と言え、予言は疑似科学として扱うことが妥当と一般的に認識されている。

2009年06月05日

日高国(ひだかのくに)は、明治維新のころ置かれた

日高国(ひだかのくに)は、明治維新のころ置かれた日本の地方区分の国の一つである。北海道に含まれる。領域は現在の日高支庁にあたる。

室町時代(15世紀)ころには和人が進出していたようである。

江戸時代ころになると、松前藩によって松前藩家臣が蝦夷と交易を行う七ヶ所の場所と呼ばれる知行地が開かれた。制度的な詳細は商場(場所)知行制および場所請負制を参照されたい。後に置かれた郡との相対は下記のとおりである。

サル場所・・・後の沙流郡
ニイカップ場所・・・後の新冠郡
シツナイ場所・・・後の静内郡
ミツイシ場所・・・後の三石郡
ウラカワ場所・・・後の浦河郡
シャマニ場所・・・後の様似郡
ホロイズミ場所・・・後の幌泉郡
江戸時代初期、日高国域ではシベチャリ川(静内川)の漁猟権をめぐり二つの蝦夷(アイヌ)の集団メナシクルとシュムクルの間で争いが続けられていた。武器を提供してくれるよう松前藩に申し入れた蝦夷の使者が疱瘡で死亡したところ、和人による毒殺と誤解した蝦夷が一斉蜂起したシャクシャインの乱が寛文9年6月に勃発、日高国域内でも多くの和人が殺害されたが後に平定されている。

江戸時代後期、日高国域は東蝦夷地に属していた。国防のため寛政11年東蝦夷地は天領(幕府直轄地)とされたが、文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり仙台藩が警固を担当した。

明治2年(1869年)8月15日に日高国が置かれた。
明治15年(1882年)2月8日、廃使置県にともない札幌県の所管となる。
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寺院・神社 [編集]
寺院は、蝦夷三官寺の一つとして文化年間に建立された等澎院が様似郡にある。

神社は寛文9年創建の浦河神社、寛政10年ころ創建された義経神社、宝永3年に創建された様似郡の住吉神社など、下記の神社をはじめ江戸時代以前に創建されたものが多い。

沙流郡 義経神社   (沙流郡平取町)
静内郡 蛭子神社   (現靜内神社、日高郡新ひだか町静内地区)
三石郡 三石神社   (日高郡新ひだか町三石地区)
浦河郡 浦河神社   (浦河郡浦河町)
様似郡 住吉神社   (様似郡様似町)
幌泉郡 住吉神社   (幌泉郡えりも町)
上記の社格は全て郷社以下である。日高国には、県社以上の社格に列せられた神社は存在しない。

2009年05月01日

池田利隆

池田 利隆(いけだ としたか)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路藩の第2代藩主。岡山藩池田家宗家2代。

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1584年(天正12年)、池田輝政の長男として美濃国岐阜に生まれる。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに父と共に参戦。1603年(慶長8年)、異母弟の池田忠継が岡山城主に任じられたとき、幼年の忠継に代わって執政代行として岡山城に入った。1605年(慶長10年)、従四位下侍従に叙任され右衛門督を兼任した。同年、徳川秀忠の養女・鶴姫(榊原康政の娘)を正室に迎えて幕府との関係を深めた。1607年(慶長12年)6月2日、武蔵守に転任し、松平姓を賜り、「松平武蔵守利隆」と名乗った。1613年(慶長18年)、父の輝政が死去したため、家督を継いだ。この時、西播磨三郡(宍粟郡・佐用郡・赤穂郡)十万石を弟・忠継に分与したため、姫路藩の所領は42万石となった。

1614年(慶長19年)からの大坂の陣では徳川方に与した。1616年(元和2年)、33歳の若さで病死した。あまりに突然の死だったため、継母・督姫による暗殺説も囁かれた。死後、家督は長男の池田光政が継いだ。

2009年04月17日

プラッシーの戦い

プラッシーの戦い(ぷらっしーのたたかい)は、1757年、インドベンガル地方のプラッシーで行われた、イギリス東インド会社と、連合軍(ムガル帝国ベンガル太守率いる土侯軍と後援するフランス東インド会社)との間で行われた戦いである。七年戦争とも関係し、イギリス・フランス間の植民地を巡る戦いの1つ。

経緯 [編集]
アンボイナ事件(1623年)以降、イギリスはインドへ本格的に進出。その先兵になった東インド会社はボンベイやマドラス、カルカッタに商館を設置、要塞化しながらインド支配の拡大を図った。また、フランスもカルカッタの近くにシャンデルナゴルを建設し、18世紀初めにはイギリス勢力を圧倒した。ガンジス川下流域のベンガル地方は、ムガル帝国時代、絹や木綿の産地であり、藍(インディゴ)やアヘンなどの集散地でもあった。ムガル帝国はこの地に太守(ナワーブ)を置いて支配したが、ヒンドゥー諸勢力の抵抗で分裂状態となる。この中で、各地の太守は実質的に独立勢力化した。かねて対立関係にあったベンガル太守は、東インド会社の要塞化問題を機に軍事衝突事件を引き起こす。

英仏代理戦争 [編集]
1757年6月23日、イギリスの軍人クライヴは、東インド会社の軍隊を率いて、フランス勢力と組んだベンガル太守のスィーラジュ・アッダウラとカルカッタの北方プラッシーで交戦した。

クライブの率いたイギリス東インド会社軍は僅かに欧州人兵士950人・セポイ2,100人と9門の砲・100人の砲兵を有していたのみで、これに対してフランス東インド会社と同盟していたベンガル太守のスィーラジュ・アッダウラは16倍(50,000人)もの歩・騎兵力と40人のフランス兵が操作する重砲を含む53門の砲を装備して戦いに臨んでいた。

しかし、ベンガル太守側兵力の大部分である35,000人の歩兵と15,000人の騎兵を提供していた前ベンガル太守のミール・ジャファールはイギリス東インド会社に内通しており、ベンガル太守に忠実な部隊は5,000人に過ぎなかったため、実際の戦闘はほぼ互角の兵力で戦われた。 (ミール・ジャファールの名前は、現代の南アジア一帯で“裏切り者”の代名詞として広く使われている)

1757年6月23日、ひどく暑くじめじめした日の07:00頃にベンガル太守側の砲撃で開始された戦闘は、昼になって大雨に見舞われて小休止し、イギリス東インド会社軍は素早く装備を雨から防いで雨が上がるまで待機した。しかしベンガル太守軍の兵士達は日頃の訓練不足と、情況の変化に柔軟に対応できないヒンドゥー教徒特有の性質から豪雨の中に火薬樽や銃・砲を放置し、水浸しとなった火薬は着火しなくなってしまった。

雨が止んだ14:00頃から反撃を開始したイギリス東インド会社軍を前にして、ミール・ジャファールの大部隊は何もせずに傍観し、スィーラジュ・アッダウラの部隊は火薬が水浸しで着火せず火器が使用できない状態のままイギリス東インド会社軍に一方的に攻撃されて惨敗した。

この戦いでのイギリス軍の損害は、セポイ22人が戦死し50人が負傷したのみで、ベンガル太守軍は500人が死傷し、フランスはインドから撤退することになる。

イギリスは、新しいベンガル太守を任命するが、徐々に傀儡化していった。1764年10月、前年ベンガル太守の座を追われたミール・ジャファールとアウド太守シュジャー・ウッダウラ、ムガル皇帝シャー・アーラム2世が東インド会社軍とブクサールで戦い、イギリスが勝利した。

イギリス東インド会社が、フランス・ベンガル太守連合軍を破ったことで、イギリスのインド支配は本格化する。1765年、東インド会社はベンガル、オリッサ、ビハールでの租税徴収権を獲得、これを次第に拡大していった。ムガル皇帝は単なる年金受領者になり、インドはイギリスの植民地となっていった。

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