プラッシーの戦い(ぷらっしーのたたかい)は、1757年、インドベンガル地方のプラッシーで行われた、イギリス東インド会社と、連合軍(ムガル帝国ベンガル太守率いる土侯軍と後援するフランス東インド会社)との間で行われた戦いである。七年戦争とも関係し、イギリス・フランス間の植民地を巡る戦いの1つ。
経緯 [編集]
アンボイナ事件(1623年)以降、イギリスはインドへ本格的に進出。その先兵になった東インド会社はボンベイやマドラス、カルカッタに商館を設置、要塞化しながらインド支配の拡大を図った。また、フランスもカルカッタの近くにシャンデルナゴルを建設し、18世紀初めにはイギリス勢力を圧倒した。ガンジス川下流域のベンガル地方は、ムガル帝国時代、絹や木綿の産地であり、藍(インディゴ)やアヘンなどの集散地でもあった。ムガル帝国はこの地に太守(ナワーブ)を置いて支配したが、ヒンドゥー諸勢力の抵抗で分裂状態となる。この中で、各地の太守は実質的に独立勢力化した。かねて対立関係にあったベンガル太守は、東インド会社の要塞化問題を機に軍事衝突事件を引き起こす。
英仏代理戦争 [編集]
1757年6月23日、イギリスの軍人クライヴは、東インド会社の軍隊を率いて、フランス勢力と組んだベンガル太守のスィーラジュ・アッダウラとカルカッタの北方プラッシーで交戦した。
クライブの率いたイギリス東インド会社軍は僅かに欧州人兵士950人・セポイ2,100人と9門の砲・100人の砲兵を有していたのみで、これに対してフランス東インド会社と同盟していたベンガル太守のスィーラジュ・アッダウラは16倍(50,000人)もの歩・騎兵力と40人のフランス兵が操作する重砲を含む53門の砲を装備して戦いに臨んでいた。
しかし、ベンガル太守側兵力の大部分である35,000人の歩兵と15,000人の騎兵を提供していた前ベンガル太守のミール・ジャファールはイギリス東インド会社に内通しており、ベンガル太守に忠実な部隊は5,000人に過ぎなかったため、実際の戦闘はほぼ互角の兵力で戦われた。 (ミール・ジャファールの名前は、現代の南アジア一帯で“裏切り者”の代名詞として広く使われている)
1757年6月23日、ひどく暑くじめじめした日の07:00頃にベンガル太守側の砲撃で開始された戦闘は、昼になって大雨に見舞われて小休止し、イギリス東インド会社軍は素早く装備を雨から防いで雨が上がるまで待機した。しかしベンガル太守軍の兵士達は日頃の訓練不足と、情況の変化に柔軟に対応できないヒンドゥー教徒特有の性質から豪雨の中に火薬樽や銃・砲を放置し、水浸しとなった火薬は着火しなくなってしまった。
雨が止んだ14:00頃から反撃を開始したイギリス東インド会社軍を前にして、ミール・ジャファールの大部隊は何もせずに傍観し、スィーラジュ・アッダウラの部隊は火薬が水浸しで着火せず火器が使用できない状態のままイギリス東インド会社軍に一方的に攻撃されて惨敗した。
この戦いでのイギリス軍の損害は、セポイ22人が戦死し50人が負傷したのみで、ベンガル太守軍は500人が死傷し、フランスはインドから撤退することになる。
イギリスは、新しいベンガル太守を任命するが、徐々に傀儡化していった。1764年10月、前年ベンガル太守の座を追われたミール・ジャファールとアウド太守シュジャー・ウッダウラ、ムガル皇帝シャー・アーラム2世が東インド会社軍とブクサールで戦い、イギリスが勝利した。
イギリス東インド会社が、フランス・ベンガル太守連合軍を破ったことで、イギリスのインド支配は本格化する。1765年、東インド会社はベンガル、オリッサ、ビハールでの租税徴収権を獲得、これを次第に拡大していった。ムガル皇帝は単なる年金受領者になり、インドはイギリスの植民地となっていった。
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